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名家の宿命 ②

last update Last Updated: 2025-04-05 21:38:38
グレタは杖を手にゆっくりと家の中へ足を踏み入れた。その背中には何かを解き明かさなければならないという強い使命感が漂っている。グレタは戦乱の後に村長を務めるようになった人物だ。

「カイラ、お前は外で待っておれ」

「はっ」

カイラは短く答えると、その場に足を固定したように立ち続けた。

カイラの動きには一切の無駄がない。いつでも動ける体勢が整っていることがはっきりと分かる。カイラの視線は依然として霧の中を鋭く見据えていた。霧の中で待機するカイラの影は静寂そのものと一体化しているかのようだ。

カイラの冷静さと緊張感が空気を引き締める中、家の中ではグレタとクラウディアの話が始まろうとしていた。

部屋は薄暗く、薬草の匂いが漂い、壁には古びた地図と乾いた薬草の束が無造作に掛けられている。

 クラウディアがグレタの様子を伺っていると、グレタが低い声で切り出した。

「わしの村では森の異変が人を狂わせ始めとる。星の光が弱まり、薬草の効能が薄くなってきた。植物が成長していないということじゃ」

グレタはクラウディアをじっと見据えたまま、言葉をさらに続けた。

「あの戦乱の前もこんな感じじゃったな」

「ああ、確かに似ている」

 クラウディアは一言だけ返した。

グレタの目的が未だ見えない。目的が何なのか、それがはっきりと分かるまでは余計なことを話さない方が無難だ。

「お前の村では名家の血を引く少女が動いとると聞いた。確かリノアと言ったな。シオンのことは……残念だった」

 クラウディアはその言葉に反応し、表情を険しくした。

「シオンの死まで他村に知れ渡っているとはね」

「シオンは名家の子じゃ。それに村々での交流が続いておる。噂はすぐに広まるよ」

 グレタの目は鋭く、クラウディアを探るようにじっと見つめている。

 クラウディアは小さく息を吐いた。

 村同士の繋がりが生む情報の流れ——それは理解している。腑に落ちないのは他村の者が訪れ、シオンの死を持ち出したことだ。

「グレタ、何が言いたいの」

 クラウディアはグレタをじっと見つめた。瞳の奥に宿る警戒心を隠そうともせず、わずかに顎を引いてグレタに問いかけた。

 その声は冷静だったが、内に秘めた疑念がかすかに震えているようだった。クラウディアの視線はまるで一歩も引かない防壁のように鋭く、グレタの言葉の裏を探る意志が明確に表れていた。

 クラウディアは腕を
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     霧を抜け、古びた門を潜った老婆と女性戦士はリノアの住む村へと足を踏み入れた。 二人は村の広場を横切ると、一軒の静かな佇まいをした家の前で立ち止まった。家の木戸が風に揺れ、軋む音が辺りに響く。「クラウディアよ、出ておいで。話したいことがあるんじゃ」 老婆のかすれた声が扉越しに響いた。付き添いの女性戦士は無言のまま老婆の背後に立ち、鋭い視線で霧の中を見据えている。 数分の沈黙の後、木戸がきしみながらゆっくり開いた。 中からクラウディアが姿を現す。七十歳ほどの年齢にもかかわらず、彼女の背筋はまっすぐ伸び、堂々とした姿には若々しさが感じられる。 クラウディアの顔立ちは、この村で生まれ育った者のものではない。特徴的な彫りの深さと異邦の香りをまとった表情は、彼女の過去に何らかの秘密があることを示唆していた。 クラウディアはグレタとその付き添いの戦士を見て、驚きと警戒の色を瞳に見せた。「グレタ……久しいね」 クラウディアの声は落ち着いていたが、警戒を緩めない。視線を戦士へと移した。「そちらは?」 クラウディアの視線が戦士に向けられた瞬間、戦士は鋭い眼差しを崩さず、一歩前に出た。「私はカイラと申します」 短く名乗るその声には自信が滲み出ていた。カイラの佇まいは強く堂々としており、その動きの一つ一つからは鍛え抜かれた技術が感じられた。「なるほど、強そうな護衛を連れてきたのね」 クラウディアは微かに頷き、カイラを探るような視線を向けた。 カイラはその言葉に反応せず、霧の奥をじっと見据えた。その瞳には注意深さと緊張感が宿っており、必要であればすぐに行動に移る構えを見せていた。「道中危険があるかもしれんと思うてな。見ての通り、わしは年老いてしまってな。もう戦える身体じゃあない」「他村の村長がこんな霧の中を訪ねてくるとは。一体、何があった?」 クラウディアの声は穏やかだったが、その奥には探るような響きが込められている。  グレタは杖を地面に突き、霧の冷たさを感じながら深く息を吸い込んだ。「森が何かを語りたがっている。わしの村でも、他の村でも異変が起きておるんじゃ。鳥の声が消え、木々が枯れ始めるといったようにな。お前の村はどうじゃ?」 グレタはクラウディアの目をじっと見つめて言った。その視線は真剣そのもので、言い逃れを許さない雰囲気を湛えている。

  • 水鏡の星詠   声なき森と父母の行方 ④

     リノアとエレナが霧深い森を歩いていると、前方から杖をついた小柄な老婆が現れた。その隣に老婆に寄り添う形で、革鎧に身を包んだ背の高い女性戦士が腰に短剣を下げ、鋭い視線で周囲を警戒している。リノアと同じ年齢くらいだろうか。私よりは少し年上に見える。 老婆はリノアたちを見て立ち止まり、付き添う戦士もその動きに合わせて足を止めた。老婆の背は曲がり、濡れた白髪が顔に張り付いている。「お前たちも見に来たのかい? 森の変化を」 老婆のかすれた声が霧の中で響いた。 リノアはその言葉を聞いて、胸の奥にある違和感がさらに強くなるのを感じた。 森に足を踏み入れてからずっと森の異変を感じていた。耳を澄ましても、鳥や虫の声がまるで消え去ったかのように聞こえない。足音を立てても、それはすぐに霧に飲み込まれ、森に響くことはなかった。 リノアは足を止めて老婆を見つめた。 老婆の目には不安と鋭い洞察が宿っている。 付き添いの戦士は無言で手を短剣の柄に軽く添えている。しかし、それは二人を警戒しているからではないようだった。いつ周囲から何かが襲ってきても対応できるようにしている雰囲気を醸し出している。「うん、私たちも気づいてる。森の声が聞こえない。まるで沈黙しているみたいに……」 リノアと老婆が会話を交わすその隣で、エレナが弓を軽く握りしめながら周囲を見渡した。静寂に包まれた森は何かが潜んでいるかのような不気味さを帯びている。 エレナもだ。目の前の二人をまるで警戒していない。「こんなことは初めてじゃ。わしの村も周囲の村も森が沈黙し、人を狂わせ始めとる。いつもと異なることが起きる時、それは何かが動く兆しと思ったほうがええ」 その瞳には、長年生きてきた者だけが持つ深い知恵が宿っている。 老婆は言い終わると杖を突き、ゆっくりと歩き始めた。付き添う戦士がその後に続き、二人とも霧の中へと進んで行った。 老婆の姿が霧の中で不吉に揺らめき、戦士の革鎧が微かに軋む音が反響する。 「今の人たち、誰だろう? 村に行くみたいだけど」 リノアが呟いた。リノアの視線は霧の中へ消えていく老婆の背中を追っていた。「分からない……。でも何かを知っているみたいだったね」 エレナはわずかに首を傾げ、霧の向こうに目を向けた。その声には、どこか老婆の言葉が引っかかっている様子が滲んでいた。 霧の中を進

  • 水鏡の星詠   声なき森と父母の行方 ③

     この村にはかつて誇り高い戦士たちがいた。しかし幼い頃に起きた戦乱で彼らは敗北を喫し、村の運命は大きく揺らいだ。 戦士たちの多くは村を離れ、村を降りて傭兵として働く者がいた一方で、一部は森の奥深くで静かな隠居生活を送ったと聞かされている。村を去った者たちの痕跡は殆どない。 その戦乱のさなか——リノアの父と母も姿を消した。 生死も行方も分からず、ただ「帰ってこなかった」という冷たい現実だけが残されている。幼かったリノアにとって、それは喪失以上の意味を持っていた。その体験はリノアの心の奥に消えることのない傷跡を残したが、それと同時にリノア自身を強くした。 時が経つにつれ、徐々に村ではリノアの両親について語る者が減っていった。戦士たちと共に消えた者たち……。それが今の村人たちの両親の記憶だった。 戦士たちがいた頃の誇り高い時代は、霧の向こうへ消えた過去のものだ。現在、村人たちは自分たちの手で日々の平穏を守り、ひっそりと暮らしている。 リノアは歩みを止め、霧の向こうに視線を向けた。見えない何かを探すように、その瞳は遠くを見据える。何も見えない霧の奥に答えのない過去が眠っているように感じられた。 だが、今のリノアはそれをただ受け止めるだけの少女ではない。 両親が愛した森、その森の沈黙が持つ意味を解き明かすこと——それこそがリノアが歩む理由であり、今の使命だ。 村を守る戦士たちを失って以降、森を取り巻く神秘的な要素も徐々に失われていった。かつては畏敬と共に語られていた森の存在は、日常の中で静かに埋もれて行くことになる。 リノアはその歴史を思い返しながら、頼りなく揺れている自分たちの影を見つめた。その影は村が誇り高い戦士たちに守られていた時代の堂々たる姿とは似ても似つかない。まるで儚い夢のように映っている。 その影は、まるでこの土地に刻まれた記憶の中で消えかけているようだった。霧の中に溶けていく足跡は、過去へと沈んでいくような感覚を伴う。 かつてこの村を守る盾となった者たちが消え去った今——村を守るのは私たちしかいない。息が白く霧の中に溶ける度に、森の奥で待ち受ける未知の運命へと立ち向かう覚悟が芽生えていく。 森が失ったその「神秘」を取り戻すため、そして真実を解き明かすためにも、この先の一歩一歩が重要なものになる。

  • 水鏡の星詠   声なき森と父母の行方 ②

     朝霧が地面を覆い、足元の苔が湿って柔らかい感触を返す。靴が石を踏むたびに、かすかな水音が響き、霧が膝下を這うように漂った。道の両側には畑が広がり、その向こうに森の輪郭が霧にぼやけている。 風が冷たく吹き抜ける中、リノアはシオンの形見である木彫りの笛を手に持ち、指先に力を込めた。笛の表面に刻まれた細かな模様がリノアの肌に冷たく食い込む。 あの時の村の若者たちの悲痛な声。それがリノアの耳に残響のように残っている。確かに森が弱ってしまったら、私たちは、もうこの地で生きて行くことはできないだろう。「クラウディアさん、本当は何か知っているんじゃないかな……」 リノアの息が白く霧に溶け、木々の間に漂う。 リノアの脳裏に浮かぶのは、クラウディアが去っていく姿だった。杖の先端が地面に触れる音が辺りに響き、霧の中へ消えていく後ろ姿。鋭い瞳には、どこか深い思案の影が宿っていた。それが妙に心に引っかかる。「あの言い伝えにある『災い』というのが気になるよね」 エレナが薬草の袋を肩にかけ直し、霧の中を見据えて言った。霧が森の奥へと広がっている。その深みへ吸い込まれるようにエレナの視線が固定された。 エレナは腰に弓を携え、背中には矢筒をしっかりと括り付けている。エレナの弓術は村でも一目置かれており、危険な状況や狩りの場で何度もその腕前を証明してきた。それはエレナの自信と冷静さを支える柱でもあった。 エレナは肩の薬草袋を背中に押し上げると、霧の向こうに向かって歩を進めた。エレナも森の奥に潜む何かへの警戒心が徐々に膨らんでいるようだ。 災いか……。 リノアはその言葉を聞いて胸の奥がざわめくのを感じた。 もし災いが起きたというのなら、シオンがその犠牲者だということなのだろうか? そんなはずはない。シオンは森を愛し、守り続けてきた存在だ。シオンが自然の怒りを買うはずがない。 霧に包まれた小道の両側にはぽつりぽつりと家が建っている。その静かな佇まいは日々の営みの平穏さを物語ったものだ。 この付近の人たちが騒いでいるところを見たことはない。ということは、問題が起きている場所は森の奥深くというのは合っている。まだ危機は村には迫ってはいない。「問題が起きているのは森の奥深い場所。まだ村そのものに危機が迫っているわけではないみたい。だけど時間は限られているんじゃないかな」 リノ

  • 水鏡の星詠   声なき森と父母の行方 ①

     リノアとエレナは広場を離れ、森の北の小径へと続く道を歩き始めた。まず向かう場所はシオンの研究所だ。 シオンは村にとって有用な研究を行っていた。村の歴史や伝統だけではなく、自然と科学を融合したものまで多岐に亘る。シオンは多才な人だった。 シオンが残した足跡は、この村だけでなく森そのものにも深く刻まれている。村に生息する動植物の生態系についての深い知識を持ち、その鋭い観察力と独自の視点から新たな発見を生み出していた。特に苔や菌糸に対するシオンの造詣は驚嘆すべきものがあった。 苔が水を蓄える仕組みや菌糸が森を豊かにする役割について、シオンが語る様子をリノアはよく思い出していた。シオンはただ知識をひけらかすのではなく、森や自然の美しさ、そして、それらがいかにして命を繋いでいるかを人々に教え、分かち合っていた。「森の声に耳を澄ませるんだ」 シオンは子どもたちや若者たちにそう言って微笑んでいた。その教えはリノアの心の中にも深く根付いている。そして今、シオンがいない村でシオンの言葉がどれほど重みを持つか、リノアは改めて感じていた。 リノアは霧の中を見つめ、胸に抱える思いを整理しようと試みた。 シオンが森の異変に気付いていたことは、シオンの記録や話の端々からも明らかだ。そのシオンが抱いていた憂いと覚悟……。 森が何かを伝えようとしている——その確信がシオンにはあった。しかしシオンが森の異変に対してどのようなアプローチを試みていたのか、その全容はまだ明らかにされていない。 現在、シオンの研究ノートに目を通したのはエレナだけだ。しかしエレナはまだそのノートについて詳しくリノアに語ったことはない。ノートに記された難解な数式や図形、断片的な文章——それらが森の異変とどう関係しているのか、エレナ自身も完全には把握しきれていないからではないかと思う。 リノア自身もシオンの研究ノートに記された内容について、特に関心を示すことはなかった。森は特別な領域であり、リノアにはそれがどこか神聖なもののように感じられていたからだ。 シオンの声がもう聞けないという現実の中、彼が愛し、守り続けた森がリノアにとって次第に特別な意味を持つようになった。静寂に包まれた森の存在は、シオンの思いを受け継ぐべき場所としてリノアの胸に深く刻まれていく。 シオンの研究は一体、どこまで進んでいたのだろう

  • 水鏡の星詠   精霊の舞、継ぐ者たち ⑤

     リノアの眉がかすかに動く。クラウディアはゆっくりと頷いた。「ああ、だがその意味を完全に解き明かした者はいない。ただ、私が幼かった頃、一度だけ森が弱ったことがあった。その時、人々は村を護るため儀式を行い、結果的に森は持ち直した。しかし……今回の異変はあの時とは何かが違う。より深い、より根源的な力が関わっているような気がしてならない」 クラウディアの言葉は広場の静寂の中に染み渡り、リノアとエレナの背筋を冷たいものが這うように震わせた。「根源的な力?」 リノアの問いかけに、クラウディアの表情が一瞬だけ険しくなった。彼女は低く静かな声で応えた。「そうだ。生命力を凌駕した、もっと古く深い力……」 クラウディアの視線が遠くの森へと向けられる。その瞳には、一種の畏敬と懸念が混ざり合っていた。「森が泣く──その時、私たちは選ばなければならない。自然と調和する道を進むのか、それとも破壊の道を辿るのか」 クラウディアの言葉に込められた重みが、リノアとエレナの胸に深く響いた。「つまり、その『根源的な力』が異変の原因かもしれないということですか?」 エレナが小さく息をつき、慎重に口を開く。「恐らくな」 クラウディアは一瞬黙った後、ゆっくりと頷いた。「私たちはそれを見つけます。森の声を聞き、その答えを必ず探し出してみせます」 そう言って、リノアはエレナと目を合わせた。「シオンの死がその始まりなら、お前たちが見つけるしかない。シオンと関係の深い、お前たちなら、きっと遣り遂げることができるだろう。リノア、エレナ、私はお前たちの勇気を信じている」 クラウディアは微笑みながら二人の決意を受け止めるように言葉を返すと、静かにその場を後にした。クラウディアの背中が霧に溶け、広場の静寂と共に消えていく。 森の奥から風が吹き抜け、冷たい空気が二人の頬を撫でて行った。まるで森そのものがリノアとエレナの決意を確かめるように。「根源的なものって何だろう……」 リノアがふと呟いた。その言葉は空気に溶けるように静かだった。「森の奥に行ってみようか。シオンの研究所に行けば何か手がかりが見つかるかもしれない」 エレナは広場の端に目を移した。 今まで森の奥深くに足を踏み入れることは殆どなかった。森の植物は十分に育っており、森の奥まで入り込む必要はなかったからだ。森の奥に行く人と

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